sunouchi blog / 感情移入させずに物語を成立させることは可能か

暑い。朝も暑かったが、昼も暑い。コンピュータが重い。

物語。私がどういうものに関心を持っているのか、興味の方向性がどういう所に向いているかという観察をしているが、これは物語である。探求するとは、自分の物語を作るということなのではないか。小説とか、映画とか、芝居とか、そういうフォーマットではなく、情報を伝えるとは物語的な構造にならざるを得ない、ということがあるのではないか。デザインとはそういうことだ。

物語でない構造で情報を伝えることは可能か。物語である、あるいはでない、ということはどういうことか。感情移入しないこと。起承転結に分断されていないこと。デザインに登場人物はいるか。ユーザが登場人物だとしたら、それはろくなものではない。起承転結にならない、ということがありえるか。クライアントが伝えたいメッセージがあるということは、やはり物語だ。メッセージとはそういうことか。マクルーハンが言ったことはよく分からないが、そういうものを含んでいるのか。

物語とは無縁の人生を歩んできたと思っていた。先日、エイリアン1を観て、その構造を換骨奪胎して、桃太郎の話を書くということをやった時、物語の面白さを初めて味わった。その際に、孤狼の血を見に行ったのだが、エイリアン1と構造が全く同じであった。エンターテインメントとはそういうものか。構造的には新しさが求められない。でも面白い。映画館に行くと、映像の迫力と音響のすごさに、ただ圧倒される。背もたれに押し付けられる。一方、芝居は自分から見に行かないと入ってこない。生の芝居。歌舞伎とか宝塚とか、文楽とか。どこを見るかは、観客側に委ねられる。これまでは、映画なんて視点を押し付けられる窮屈なものだとばかり思っていたが、物語の構造を見るようになってからは、ポジティブな見方ができるようになっている。

関心。自分の関心。物語とは別の観点で、私が気になっていることがある。なんだっけ。思い出せないのだけど、こうやって系ているとk、多分そのうち思い出されると思う。あー。うちわで仰いでいる人がいる。とりあえず、なんかこうして描いていれば、どこかで繋がってくるはずなのだ田。コーヒー屋にいるのだけど。若いお兄さんが目の前を通り過ぎる。

ちょっと思い出せない。諦める。諦めることからしか、何かは始まらない。文章を書くことで、書き出すrことで、今の自分の中にどういう関心が湧いているのかということを絞り出すことができる。絞り出せば、容量の空きができる。そこに泉が入ってくる、千日回峰行をやった人が、別の断食の行に入った時、喉が乾いた時にそういう状態になってということを書いておった。