現在起点のものの見方

published at 2018.08.11 17:06

私がいま過ごしているのは、今である。この今は、「現在」を起点に過ぎるものか、それとも起点となる「未来」に向かって流れていくものか。

時間との付き合い方を二つに分けて考えてみる。未来起点の過ごし方と、現在起点の過ごし方である。現代人は、未来を起点に生きている。例えば、雇用の安定した企業に入りたいとか、将来起きうる事故に備えるために保険に入るとか、そういう生き方である。現代というか、近代とは、未来を起点に設計されている。

過度な未来志向は、窮屈さを生む。未来によって、現在が束縛される。そういうものは、カウントダウン的な構造を持っている。例えば駆け込み乗車。5分待てば次の電車が来るのに、なぜ目の前に飛び乗りたくなるのかというと、カウントダウンが始まるからである。合理的かどうかを考える余裕を与えず、未来に向けてカウントダウンされると、人は体が動いてしまう。

それに対して、現在起点に生き方はハプニング的な構造を持つ。ハプニング構造がどういうものか、いまいちイメージしにくいのだが、発見とか、遊びに関することである。あらかじめ想定していたこととは異なる何かが起きること。未来起点が理知的であるのに対し、現在起点はもう少し情緒的である。

現在起点を考えるうえで、手がかりとなる本を3つ並べてみる。
・G・ベイトソン(1986, 1987)『精神の生態学(上・下)』思索社
・マーシャル・マクルーハン(1987)『メディア論』, みすず書房
・ハーバート・A・サイモン(1999)『システムの科学』, パーソナルメディア

3冊に共通して論点となるのは、矛盾を抱き込んでいかに前に進んでいくか、ということだ。ベイトソンのいう相補的分裂生成において、エートス(感知)とエイドス(認知)をどう噛み合わせられるか。マクルーハンのいう印刷文化によって分断された知性と感性を、どう結合させられるか。サイモンのいうオーダーに対する矛盾を孕んだデザインとはどういうものか。

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